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03年4月
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僕はふらっと訪れた唐招提寺をきっかけに、寺巡りに勤しむようになった。
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そして、撮り溜めた画像データを活かせないか?と思った時、コンピュータ関連の仕事をしていた自分が、ホームページを作り始めたことは、自然の成り行きだった。
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奈良は日本で一番国宝建築の多い県であるし、格好の題材になると思った。こうして「奈良のお寺データベース」という副題をつけたサイトが始まった。 |
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それから2年以上経ったある日、人気の無い寺のただひとつの石塔のためだけに、1時間以上も車を走らせている自分を、「何をしているんだろう?」と我に返させることがあった。
好きで向かっているのにも関わらず。 |
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こういうことがあってからの一時期、楽しめなくなったので、寺巡りをやめた。
ただ、収集しているという自己満足しか見えてこなくなった。 |
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しかし、サイトの更新が止まっている中でも、自分は自らが作ったサイトを良く見た、「なぜ、自分は古建築を追い求めるのか?」ということを考えながら。
そして古建築の持つ「空気の意味」とは何かを再び掘り返してみようと思った。 |
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文化財に指定されるような考証の確かな古建築というものは、「そこに歴史があった」ことをある程度確実に伝えてくれるものである。
それは言い換えれば、「そこに過去があった」ということを教えてくれるものでもある。 |
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政治史を中心とした学校の歴史教育だけでは、いまいちピンとこない歴史。
しかし、古建築を目の前にすると、「確かに歴史があった」ということを体一杯に受け止めることができるような気がする。 |
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一旦それを体験すると、新たな歴史の知識を取り込んだり、考えたりする上での深みが明らかに変わってくる。
本に書いてある歴史が、まやかしなどではない事実として、素直に受け入れることができるようになる。 |
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| しかし、自分はなぜこんなに「確かな過去」にこだわるのかだろうか? |
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それは、人生におけるあらゆる問題で悩んだとき、歴史と比較して考える癖が自分にはあるからだ。
テレビから聞こえてくる意見や、ネットで探した情報に納得できないとき、歴史を普遍的なモノサシとして頼りにしている自分がいる。
「今やっているこのことは、昔だったら何に相当し、当時の人はそれをどう判断しただろうか?」と考える。 |
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| そうすることによって、「大袈裟に考えることでもない」と楽になったり、違った角度で問題を見つめるキッカケを与えられたりする。 |
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世の中が混沌としていると、「これからどうなるのか?」「自分は何者なのか?」ということを考えたくなってくるが、歴史を考えることによって、自分は今という時代にたまたま生きているということを理解することができるし、未来に対し過度に悲観的にならなくても、妥当な線で今後も人間の歴史は続いていく、明日はまた普通に来る、と思えるようになる。 |
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こういうことを考えるようになって、自分のサイトでやりたいこと、やるべきでないところが、明確にわかってきた。
そして一年間の構想の末、サイトを「奈良の古建築と空間」という副題でリニューアルした。 |
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自分は古建築の細かい様式より、歴史の証人としての古建築に興味があったのだ。
「この建物が建立された頃というのは、どんな世の中だったのか?」ということを想像するのはとても楽しい。 |
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また、自らが作ったページを、地域・人物・建築物などをテーマにクリックしていくうちに、訪れた地が点から線、やがては面とつながっていき、奈良各地の歴史の特色が浮き彫りになってくる。
これはハイパーリンクという技術が可能にした、新しい感覚といえるかもしれない。 |
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この度、奈良から離れることになったけれども、このサイトを散歩して想像力を働かせることはできる。
そして再び奈良に訪れる時には、文化財という枠にとらわれることなく、もっと柔軟に、自由に、新たな発想を求めて歩きたい。 |
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