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9月20日放送の『うたばん』を観て、驚嘆の思いを新たにしたワタクシでございます。何に驚いたかって、後藤真希のあの天然な媚びっぷり。 ほら、居るでしょう、男の前に出ると突然身にまとうオーラ自体が変質しちゃうようなコ。いわゆる“ぶりっ子”と違って、声のトーンがあからさまに変わったり、突然仕草がクネクネし出したりということは無いにせよ、何故かどこかがふっと“女”に変わってしまうタイプの女性。クラスに一人とは言わないまでも、 「そういえば今迄の人生に一人二人いたなぁ、そういう天然系」 と思いません? 本人結構無意識なだけに、正面切ってクレームつけるのも無駄なような気はするものの、収まりはつかないんでどうしても陰口の対象になってしまうタイプ(<おい、やけに具体的だな(笑))。またそういう子って、“男”というよりは“自分に役に立つ”相手を嗅ぎ分ける能力に長けているんで、何故かたとえ女性が相手だとしても、目上の人間には妙に可愛がられたりして。何せ天然なだけに、スイッチの切り替わりが“判断”ではなく“嗅覚”なのよね。 「こいつは役に立つ」 と神経センサーのどこかが判断するや否や、パチッとスイッチが入る、みたいな。 ゴマキの場合も、多分本人の意識の中には、 「折角スキだ好きだって言ってくれてることだし、ここはいっちょ貴明サンに媚びてみよう」 という計算はあんまり無いんじゃないかと。ただ単に、 「何か〜、ちょっと〜、もてはやされてるって感じあるし〜、矢口さんとか気にしないでひとりでゆっくり喋れるし〜」 程度の意識で居る様な風情ではあるんですよ。それでも、時折石橋に見せる笑顔は、凶悪なまでに“女”。 ま、なべて世の中、生物学的には男女の2種しか居ない訳ですから(ジェンダーボーダレスの方ごめんなさい。一応、“生物学的”ってことで赦してね)、女性が、同性に対するのと異性に対するのとで態度が自然に変わるのは普通ですし。更に言えば、『うたばん』の後藤の場合、“女性ばかり10人近くのメンバーに取り囲まれている”という状態から、突然独りぼっちで男性二人を相手にしなければならないというシチュエーションに放り込まれている訳。そもそも、 「女性共同体の中での行動パターン」 が衆目に晒されているという事自体が、異常ですわよね。普通は、 「あのコ女の子同士ではあんな感じじゃないのよ」 と女性がいくら男性に訴えても、大抵の場合「ヒガミ」と取られる訳ですが。ゴマキの場合は、「女の子同士だと・・・」という実態(?)が、様々なモー娘。番組内で晒されている訳で。で、そこから突然ぽーんと男二人の番組に独りでゲストとして放り込まれたら、そりゃ多少は愛想も良くなるし普段以上に“女”になりますわな。 その上、この2人っていうのが、 「役に立ち度」 ではあからさまに差があるだけに(いや、中居がどーのと言いたい訳ではなくて、やっぱり“ジャニーズの独身アイドル”と“お笑いの中年既婚者”なら、明らかに後者の方が自分に火の粉が掛かりにくいじゃないですか)、他の数多の女性タレントに比べても、ゴマキのいわゆる“シフトチェンジ”は非常に目立ちやすい状況にあった訳ですけれども。それにしても、16歳にして身体にスイッチを持つ後藤真希、やっぱり恐るべしというか何というか・・・。 しかし残念ながら、今度発売される『溢れちゃう・・・Be In Love』は、そんなゴマキの“武器”を効果的に発揮しているとは言えない楽曲になっている模様でございます。何ですか、巷では 「それって、“パロ”とか“パクリ”を通り越して単なる盗作じゃん!」 という疑惑がかまびすしい訳ですが、その辺を抜きにしても今一歩魅力的ではございません。特に、テレビサイズに収めた時の絵面が、どうも芳しくない。 ゴマキの特徴の1つに、 「実スピードで動いてる時はそうでもないが、静止画像もしくはスロー映像で見ると、女性でもどきどきする程魅力的な表情をする事が多い」 という点が挙げられるんじゃないでしょうか。モーニング娘。の場合、その人数の多さから、集合写真での全員のベストショットというのは比較的難しいんですね。飯田かおりんなんて、よく見ると結構「え?」という写真が出回ってるし。 しかし、ワタシが見るに、ここしばらくの写真媒体におけるゴマキは、どう持ってきても常にベストに近いテンションをキープしているような気がします。某雑誌に掲載された 「新メンバー歓迎会」 の写真なんて、どこをとってもベストショット。 アイドルの最大要件・“常に同じ笑顔”をフルタイムで見せる事の出来るプロフェッショナル安倍なつみは別にしても、毎度毎度、いわゆる“作り込まれた笑顔”ではない表情でベストショットを繰り出すというのは、生半可な事では出来ません。 そんなフォトジェニックなゴマキが、今度の曲では踊る踊る。腰をくねらせ髪振り乱して、おなか丸出しのセクシー衣装で 「キッスしたって 抱っこしたって なんかんない なんか足んない」 と鼻血が出そうな歌詞を唄う訳ですわ。 狙いとしては判りやすいんです。もう、ど真ん中エロチシズム。意図する所はもの凄く明確だし、伝達力も高いんですが。しかしこれがもう、さっぱり魅力に欠けるんだなぁ。何せ、全てがあからさま過ぎて。 若くして出来ちゃった結婚をして既に1児の母であるにも関わらず、“セクシーさ”よりもどこか乾いたものを感じさせる安室奈美恵ならば、こういう“ヘソ出し踊りあり”もOKだと思うんですよ。でも、そもそも“無意識のエロティシズム”を充分に持つゴマキが今更ダイレクトに押せ押せで来たって、ちっとも面白みが無い。訴えかけてくるものがあまりにも素の情報過ぎて、 「・・・それで?」 という感じになってしまうんですね。 似たような系統の衣装をまとった2人のダンサー従えて踊るゴマキ。 「ダンサブルでカッコ良くて可愛くてセクシー」 という(多分マネジメント側から用意された)今回のイメージに、天性の勘で何とか喰らいついているようには見えますが。それはあくまでも“ゴマキがイメージに合わせている”訳で、前述の通りの“静止画の時の後藤真希の破壊力”を十全に見せている事には成りません。それって、いわゆるアイドルの楽曲戦略としてはかなり疑問ですわな。アーティスト系のタレントやぽっと出たてのアイドルならまだしも、ゴマキ程のポテンシャルを持ったアイドルを“製作側が作った枠”の中に押し込むというのは、どう考えても間違っているような気がします。ちゃんと売りたいんだったら、“後藤真希”を徹底消費するつもりで行かなくちゃ。 アイドルというものはそもそも、唄や踊りの能力値というよりは、その輝く“存在”そのものをを切り売りしていくもの。そして、切り売りする事によって発生する貨幣価値やらファンもしくはマニア(最近はヲタと呼ぶね)の視線やらがフィードバックされる事で、更にその“存在”の輝きを増して行くという循環機能を持つもの。フィードバックされる熱量がそのアイドルの“存在”を下回ったときに、彼もしくは彼女の時代は終わる訳。 かつて幾人ものアイドルが、「“存在”<フィードバック」の状態をキープしようとしてあがいては消えて行ったのを見れば判るように、このバランスばっかりは、いかに努力してもいつどこで崩れるかはなかなか予測がつかない(21世紀になっても台風の進路をコントロールする事が出来ないように)。 今回のゴマキ新曲の戦略は、敢えて彼女の魅力の路線を外す事で、アイドルとしての本道を踏み外そうとしているように見えます。そりゃまぁ多分、彼女の表現の幅を広げようという意図はあるのだろうけど、前述の通り、それなりのポテンシャルを持つアイドルに、“能力地のアップ”はあんまり必要ないんだよねぇ。っていうより、むしろ邪魔だったりするし。 もし楽曲は固定で今回のビジュアルイメージを作らなければならないとしたら、明らかに振り付け無しでしょう、この曲は。衣装も、白い長袖ブラウスに紺べス・ハイソックス・中途半端な丈のチェックのスカートという、いかにも16歳っぽいカジュアルかつ見ようによってはちょっと禁欲的な出で立ちにして(但し、白ブラウスの第一ボタンは外しても良し)。 踊りが入ると、動く分だけカメラワークも限定された動きになっちゃいますが。静止画像の得意なゴマキがほとんど動き無く唄えば、各局のクルーも腕のふるい所。派手な感情表現の無い彼女の顔をよぎる微妙な変化は、歌詞が歌詞だけに見所も多そうですし、絶妙のポイントでアップを抜けたらその破壊力たるや凄まじいものになりそうです。 スタンドマイクに縋る様にぶら下がって、単にゴマキ本人が唄いやすいリズムパターンの身体の揺れだけを頼りに(そうすると多分ゴマキは仁王立ち。肩幅に開いた足もまた良し)、いつもの能面であの曲を熱唱したら、こりゃメチャメチャイカしますぜダンナ。何かオヤヂになってますが。 あぁ、パチもんの曲にパチもんアムロ風のビジュアルを与えられたゴマキが不憫。別に好きじゃない筈なんだけど。 2001年09月22日 (SAT)
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