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人とおんなじ芝居を観て、それぞれの感想を聞くっていうことの快感には、堪えられないものがありますなぁ。 「そうかそうか、金子さんは『野田の台詞を堤のよーないい男が発すると嵌まってて良い』とおっしゃってたのか」とか、「大和さんはやっぱり遊眠社の影響を見てしもうたか」とか、「中村さんは結構感動したんだなや、それにしてものぶりんさんはコクーンであたしが『あ、のぶりんさんだぁ』と思ってご挨拶したら『なんだこいつは』といわんばかりの顔できょとんとしてたな」とか、色々感慨深い。 友人と観に行って間を置かずにきゃいきゃい騒ぐのも確かに楽しいのだが、これはかなり『内輪』の楽しみであるのだな。なんとなれば、一緒に芝居を見物に行こうという類の友人とくりゃあ、今まで観てきた芝居の系統も自ずと似通ってきてしまうし、相手の感じ方も何となく読めてしまう。従って、「そぉよねっ、そぉなのよねっ」的な盛り上がりになってしまうのは否めないのだ。 そこへ来ると、『れんらく』に載ってる感想文は多種多様で、啓蒙的ですらある。勿論、○○演劇部っつーのも広義では『内輪』なんだろうけど、「ふーん」という感覚/テラ・インコグニタの発見という点においては、友人同士との“ムラ”的集合とは比較にならん程大きい。時々、自分が感じたことと全く逆の感想を抱いた人なんかがいるのもまた嬉しかったりなんかしてね。 と、言い訳めいた言葉がちゃんと文脈に沿って出てきてくれたところで本題でやんす。 “何も足さない、何も引かない、まるでピュアモルトのよーな野田芝居”。 これがあたくしの感想。 ま、遊眠社フリークにとっては、さほどネガティブな意味合いの無い「無変化」なんでしょうがね。何時ものように綺麗な真っ白い照明、何時ものように痒いところに手が届きまくってる装置、何時ものようにリリカルな物語世界。うれし恥ずかしお懐かし。 あのべたべたに白い明かりをラストシーンに持ってきて、なおかつ[THE・タカラヅカ歌劇団]にしてしまわない凄さってのは、野田さんならではだよな。役者が決して足場を目視確認する事のない(本来当たり前なんだろうけど、恐いぞ、やっぱり)完璧な装置の動きも流石なら、椅子が艀に、ギロチンになっていく“見立て”も相変わらず好調。役者陣も、技量的な意味では、想像よりぐっと良かった。西牟田恵は本当によく動いてた(スローなんて野田さんより良かった)。渡辺いっけいもテレビ擦れした様子は毛程も無かったし、羽野晶紀も『愛はどうだ』の時の「こいつほんとに舞台出身かよー」ってな目を覆わんばかりのひでえ演技が夢か幻だったかのように好演(この言葉嫌いなんだがなぁ)してたし。 得に悪いとこ、無かったよね。 ただし。 “これが野田秀樹の畢生の大傑作”みたいな世評には納得できないワタシである。 ラブストーリーとしては『走れメルス』『贋作・桜の森の・・・』の方が上だし、壮大さなら『星七変化三部作』に軍配が上がる。ラストの切なさなら『国姓爺合戦』のがうるうる度高いし、『明るい冒険』の終局はもっと明るく、悲しかった。 勿論、良くまとまったとってもイイお芝居だったし、役者も粒揃ってて楽しかったと思うよ。初めて観た人が目一杯感激して、椅子から転げ落ちた挙げ句にそのまんまボブスレー状態で渋谷駅まで10秒で辿り着いたってちぃっとも不思議じゃない出来だった。7000円という、殆ど暴力的なお値段を払っても充分得した気分に、いや、是非もいっぺん観たいという気分になれる凄い芝居だった。 ただなぁ・・・。 なんかこう、衝撃が無いのよ、衝撃が。 長野さんがあのながいながい評の中で『おれは見切ってしまったんだよ』呟いていたように、大和さんが『野田さんの一年間はまさしく停電であった』と喝破なさったように、全く踏み外しの無い、暴力的な爆発力のない、若さのない舞台だったんだよな。 『若さのない』っていってしまうと何ですね、えーと、えーと、これって、言いようによっては『成熟』と表現されるんだとおもう。 当然の事ながら、成熟するのは悪い事では無いと思うのよ。 でも、破綻の無いドラマって、(特に、実存のオーラがものをいう『舞台芸術』においては)ちょっとだけ欲求不満を感じさせるんだ。無い物ねだりなんだけど、それは判ってるんだけど。 映画的な(NGが出たらハイ撮り直し、みたいな)完成度って、生身の人間を観に来てるこっちとしては、さみしいのよ。 うーん、そんな訳で、気の毒とは思いつつも、私の頭の中では深沢敦の声が“台詞忘れの帝王”松澤一之のそれに聞こえ、JJとフリフリは『少年狩り』の手足をバタバタさせるばかりだったあんあんとのんのにダブり、無意識のどこかが佐戸井けん太の規格はずれな巨体を探していたんだな。 大顰蹙を買うのを覚悟で言えば、ラストの台詞、上杉祥三なら泣けた気がする。もうこれは、役者としての技量とか、好き嫌いとか、まぁったく関係なく(あ、でも、“慣れ”の問題がちっとあるかな)。 役者陣が、『野田秀樹の書いたコトバ』に忠実になろうとするあまりに、『野田秀樹の芝居』を完璧にこなそうとするあまりに、ささくれだつような独りよがりを放棄しすぎた様な気がする。野田秀樹と対決するのではなく、野田秀樹を神のように仰ぎ、ただひたすら“神様の仰せの通りに動く”事を至上としてしまった・・・みたいな感があるんだよなぁ。その結果、完璧だけどちょっと物足りない、純粋培養野田秀樹芝居が出来上がっちゃったんでは無かろうか。 これはしかし、役者のせいでも、ましてや野田のせいでも無いよな。『明るい冒険』の橋爪功も、『から騒ぎ』の時の三浦洋一も、野田の演出の下で充分にエキサイティングだったもん。 たかだか一年ぽっち英国留学したぐらいのもんで、騒ぎ過ぎたんじゃないの?周囲が。 大和さんもおっしゃってた通り、一人の表現者が十何年やって来たことなんて、そうそう変わんないよ。『野田秀樹帰国第一作!』のプレッシャーが、本人以上に出演者の両肩にのしかかっていったんじゃないのかね。そんでもって[十行前に戻る]。 ああ、やばい。このまま行くとお定まりの体制批判になってゆく。とっとと切り上げよう。 何だか否定的な文章になってしまって、看板(“たまには褒めよう”って、冒頭に書いたくせになぁ)に偽り有り状態ですが。でもね、「あー、いい芝居を観たな」っていう満足感は充分にあるんですよ。 もう既に、先に咲きに行く事は出来なくなっても、走りつづけることは出来なくなっても(幕間があったのって悲しかったよなぁ。ああいう芝居は一気に観たいもんな)確かに根幹的な良さは衰えていなかった。なくなったのはスピードと、収斂力或いは解放感だけ(あの、突然全てがスローモーションになっていくときの濃密な劇世界!ラストのスローモーションに喚起される放心状態の心地よさ!これが『キル』で充分に爆発しなかったのは、やっぱり[二十行前に戻る])。 今回の『キル』は、逆説的に、野田さんの芝居が「スピードと、収斂力或いは解放感」だけじゃないぞ、もっと本質的なところ(例えば、物語性/神話性とか、オーソドックスな意味での空間の使い方とか)で勝負しても、疑いなく日本のトップ足り得るのだぞ、ということを証明したみたい(いや、虚心に読んでね虚心に)。だって、これだけぐちゃぐちゃ言っておきながら、面白かったことに違いはないんだもん。終局の本火を使ったシーンなんて、どきどきしまくっちゃったもん。カーテンコールで、思わず野田さんに手、振っちゃったもん。 そんなこんなで、またしてもずいぶんと長い文になってしまいましたが、結論は 『ああ、相変わらず野田さんはいいなぁ』 ということで。え?いいかげんにしろ?はいすいません。素直に謝ったもん勝ちだぁ。 |