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『贋作・桜の森の満開の下』
6/23ソワレ 新国立劇場)


事前の案内に
「21世紀なりの現代的なリメイク」
なんて書いてあったので結構心配したのだけれども、舞台装置とキャスト以外は殆ど変更無しの再々演『贋作・桜の森の満開の下』であった。異論は様々御座いましょうが、ワタシは“変化なし”にホッとしたクチ。なにせこの作品は、個人的にちょいと思い入れが強いモノでねぇ・・・。

物語。
桜の森の満開の下の狂気の中でうっかり師匠を手にかけてしまった耳男は、その師匠が参加する筈の「ヒダの王家の王の娘の十六の正月に素敵な弥勒を彫ろうコンテスト」に連なる事になってしまう。このコンテストに参加するのは、耳男同様本来のエントリー主を殺してしまったが為に参加することになった山賊のマナコ、そして得体の知れない貴風の男・オオアマ。
純粋狂気の持ち主・夜長姫に翻弄される耳男は、ヒメの十六の正月にイノチが宿ってバケモノになれ、と、意趣返しの思い込めて覚えぬ腕で必死に彫り物をはじめるが、その裏で、オオアマ(大海人皇子)の権力奪取の策略の渦は、俗物マナコや夜長の妹早寝を巻き込み、鬼と戦乱を招き寄せる。
早寝のイノチを抵当に『セ・マ・鬼門』なる予告された殺人の記録を手に入れたオオアマは、マナコの中途半端な裏切りをものともせずに政権を手に入れた。しかし、手に入れたクニの形定まらぬ不安から、クニとオニとの境を明確にすべく、一人のスケープゴートを“オニ”に擬して野に放つ。
「逃げろ逃げろ、逃げた先までがオニの先、国の果て」
そのスケープゴートは、知らずして鬼門を開きオオアマのクニヅクリに加担した筈の耳男であった。かくして、夜長姫と耳男の、
「自転車で長い坂をブレーキかけずに降り続けるような」
逃避行が始まる・・・。
(すいません、これはあくまでもワタシがダイジェストしたものです。この話複雑怪奇なモンで、見る人によって全然違う話になってると思う・・・)

堤真一の話は、『野獣郎見参』絡みで別項に譲るとして、不満なのはやっぱり深津絵里の使い方。とにかく、最初から最後まで声を張っているばかりで、メリハリが無いんである。涙が出るほど勿体無い。
一応、鬼女と夜長姫の時に声色を使ってはいるんだけど、いずれも声を張りっぱなしなせいで聞き辛い。声に高低はあっても、強弱が全く無いのだ。常にキリキリコンコンフルボリュームで怒鳴っているので、台詞の内容は聞き取れないし“深津絵里の咽喉”が心配になって芝居に入り込めないし・・・。
これは明らかに、深津絵里の咎ではなくて演出の咎である。
再々演ともなれば、どうしたって前に同役を演じた役者と比較されるのは仕方が無い。その初演・再演で夜長姫を演じたのは、「卑怯」としか表現しようの無い毬谷友子である。しかも、脚本・演出・解釈、いずれも初演バージョンと殆ど変更が無いのだ(まぁ、戯曲の完成度の高さ故に変えようが無いんだろうけどね)。これはもう、比べてくださいと言っているようなモンである。それなのに深津絵里は、ただ
「声が客席の後ろまで届かなかったらどうしよう」
という強迫観念にのみ囚われて、ひたすら声を張り上げる事だけに精力を尽くしている(ように見える)。これ、ちゃんと演出方面で指摘したらなあかんて。
ただ全力で台詞を叫ばせているだけというのは、もはや伝説と化している毬谷夜長姫に対抗せねばならない深津絵里を、ノーガードで観衆の目に晒すようなモノ。そこを舞台のサイズにあわせて修正していくのが演出家の道筋のつけ方だと思うのだが如何であろうか。大体、深津絵里って、その辺の押し引きは(少なくともテレビ芝居では)確実に出来るはずの女優。確かに存在感と透明感は舞台の上から強烈に放出していて、“物語の核”としての仕事はキッチリこなしていたように見えるけれど、あの、あの深津絵里が妙に大根ちゃんに見える(聴こえる)芝居をしている、というのは、明らかに演出家の怠慢だとワタシは思う。深津夜長、くるくると目まぐるしく舞台を駆け回る軽やかなカラダの使い方や客席を圧する澄んだ透明感は、毬谷夜長に負けるとも劣らぬ(っていうか全く別物として立派に完成された)見事さだった訳で、つくづく惜しいというか悔しいというか勿体無いというか。
うーん、下世話な事を言ってアレなんですけども、野田秀樹、恋情に目が眩んで「絵里のすることなら何でもOK」状態に入っちゃってるんだろうか。それはマズい、マズいぞ・・・。

しかしその分、愛情が薄いのが行って帰って幸いに転じちゃったのか、京野ことみは意外と良うございました。少なくとも、「初舞台としては可も無く不可も無く」レベルにはきっちり到達していたように見えましたわ。早寝姫はそれなりに可憐だったし、桃太郎は正直ものすごく可憐だったし。そういえば、『カノン』の時の須藤理彩も、難役にも関わらずかなり悪くなかった記憶があるぞ。逆に、大竹しのぶが演じた『虎・野田版国戦爺合戦』は散々な出来だったような。野田秀樹、女優に溺れると脚本はともかく演出に難が出るか。

物語の頂点で話を引っ張るのが夜長姫なら、物語を支える2本足がマナコとオオアマ。今回演じるのはマナコ・古田新太、オオアマ・入江雅人。特に、利き足という観点で行けば、筋立てを流す役割に当たるのがオオアマなだけに、本来はオオアマが右足(つまり強い立場)でなくてはならない。ところが、入江雅人に不足感がアリアリで、古田が相変わらずな分物語がビッコをひいてしまった感じ。
「何をやっても古田新太」な古田新太、「出だしは威勢が良くても後から小心になる」山賊を充分に演じて、観客を苛々させる(笑)。お前の舞台かい。
「その“待ちやがれ”、待ちやがれぃ!」
と見得を切る辺りなんざ、正に自家薬籠中と言ったところだろうか。
ただ、「古田新太の早口」に既に充分慣れている観客はともかく、演劇初見・古田初見の方々にとっては、あの台詞は聞き辛かったらしいという話を後から聞いた。
「マナコのヒトの台詞、さっぱり判らなかった」
んだそうである。古田形無し。っていうか、その辺も演出で何とかして欲しいよなぁ。「もうちょっとゆっくり喋れ」くらい言えるだろ、演出家(それにしても古田の早口って、滑舌の良さが裏目に出てるよね。慣れると簡単にヒアリング出来るようになるって辺りがまた何とも・・・)。
哀しい事に少々役者不足気味な入江雅人。彼の役・オオアマは、大義の為に惚れた女を殺し、慟哭してるふりして策略を練り、その“大義”が己の中であまりにも大きく重要になりすぎてしまったために、終いにゃ神経症になってしまうという人物像。その上、
「手に入れるのはたやすいが、その後の管理・維持が大変なのよ〜」
というところまでしっかり把握している王風の持ち主なんだから、入江クンじゃ明らかに不足。これまた前述の深津絵里同様、入江雅人の能力が問題なのではなく、演出もしくはキャスティングが問題なんだよなぁ。『パンドラの鐘』の、利用されても裏切られてもただ真実にしか眼を向ける事が出来ないオズ、みたいな役ならば、もうドンピシャで素晴らしかっただけに、今回は“オオアマ”というキャラクターだけでなく“役者入江雅人”にとっても残念だったような気が。適材適所って台詞を、このキャストを組んだどなたかに進呈したいっす。古田があと15キロ痩せたら、マナコ−オオアマコンバートで充分行けた筈なんだが・・・。ただ、某所で、
「後半、権威権力を象徴する筈のオオアマの影が妙に薄かったのは、現代という時代の気分を鏡に映しているようで納得」
という評を読んで、
「ふーん・・・」
と思ったのもこれまた事実だったりして。なるほどねぇ。

雑誌のインタビューで古田新太に「うぜぇ」と斬り捨てられてた、役者野田秀樹。ヒダの王家の王役で、日本書紀以前の(史前の)“幸福な王の時代”を体現する役どころ。ま、つまり、「うぜぇ」(笑)。
主演じゃなければ何をやってもいい、と勘違いしている役者って時折居るけれど、多分野田秀樹もソレなんだろうなぁ(笑)。モノガタリの中央に居ない、という緊張感の緩みからか、やりたい放題。自分の書いた脚本を一体何だと思ってるんだろう、とつい悩んでしまうような暴走ぶりで微苦笑を誘っておりました。なんかもう、ボケ老人の域に達してるというか、周りから、
「んもうおじいちゃんはしょうがないわねぇ」
扱いされる事を受け容れてるって雰囲気が。この辺、すっかりタモリ的なタタズマイですな。ただ、ラスト近くで、台詞を謡う能力は老いても衰えず(まだ40代です)、って所をちらりと見せてはおりましたけども。

古田新太に続けとばかり、大物演出家喰いを続けている大倉孝二。なんだか去年から今年にかけて、やたらいっぱい大倉クンを見ているような気がするワタシである(デカいから印象に残りやすいという話も)。
春野ひまわりに比べてエラくインパクトの無いキャラクターなんで、何とかオノレを印象付けようとそれなりに努力しているのが見て取れて、そこはかとなくほほえましい。同じ劇団の犬山犬子(そういえば『サンデーおちゃめナイト』だな)とセット販売だが、それにしてもどうしたことだこの二人の余裕は。周囲への目配りと自分のポジション取りが妙にきっちりしていて、
「巧いなぁ」
と感嘆しきりの私。そして、そんな二人の間で外し放題外しているのが荒川良々@大人計画。もさーっと出てきてもさーっと物語の周囲を徘徊して、気が付くとカーテンコールでちゃっかり中央に立っているという・・・。野田・大倉・荒川と、今回の場合脇が変な具合に立ちすぎてて、古田以外のセンターポジションがちょっと弱くなっちゃったという恨みがあるなぁ。

さまざま不満を述べ立ててはみたが、何せ概ねの不満が、役者のバランスと使い方。魂抜かれるほど美しいセットと緻密な空間の使い方は、
「うーんさすがにお見事」
と唸ってしまう出来栄えであった。一部、2時間サスペンスドラマみたいな俗っぽい音響に萎えた部分もあったものの、そもそも初演段階からよく磨かれた珠みたいな脚本なだけに、結局終局で思わず息を呑んで心揺さぶられてしまったワタシ。演劇系の掲示板などを見るとどうやら賛否両論があるらしいが、今回のモノは今回のモノとして、あの珠玉の脚本が目の前に肉体化されているというだけでそれなりの満足を覚えてしまったりして。・・・と言いつつ、物販で毬谷版再演のビデオを買ってしまったワタシである(実は、既に家にあるのだが、何分ビデオテープなので減りがコワくて、保存用にもう一本買ったのだ<こういうのを本物のバカと呼ぶ)。

冒頭からやれ珠玉だの直し様が無いだのと激賞している脚本なんだが。
この内容についてワタシの思うところを詳しく書くと、エラいことになってしまうんである。というのも、ワタシは学生時代にこの芝居を見て、卒論を福永武彦から坂口安吾に変更したという筋金入りのバカだからだ。で、どうせバカをさらすなら徹底的に・・・と卒論を引っ張り出して別ページに掲載しようと思ったんだが、どういう訳かいくら探しても見つからないのでこの案は却下(っていうか、卒論って10年は本人保存が義務なんだよね。卒業取り消されたらどうしよう(笑))。
穿った事を書く余地はたくさんあるが、多分それは、観客が個々に想う類のものなのだろう。少なくともファシズムは絶対に憎んでいる筈の野田秀樹が、一つの解釈で客を赦すとも思えないし。
余人は知らぬ。私は、桜の下で風も無いのにゴウゴウと吹き渡る風の中に“ゲイジュツのカミサマ”の後ろ髪の残り香を探して、新国立劇場のなかなかに坐り心地の良い椅子の上でただ凝然と固まってしまったのであった(言いたくないが、初演・再演の時はその残り香を確かに嗅いだんだけどね)。

今度はがらりと趣向を変えて、阿部サダヲの耳男なんてモンも見てみたいかなぁ(阿部サダヲが耳男なら、加藤あいの夜長姫はどうだ<般若顔だし)、とちらっと思ったことを、最後に付記しておきます。はい。



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